2017年8月公開の映画「関ヶ原」分かりやすく歴史人物を紹介時代!

2017年8月26日(土)から公開される映画、「関ヶ原」

誰もが名前を知る有名な戦い、関ヶ原の戦いが日本で初めて映画となりました。しかし、どんな戦いだったかはほとんどの人は知らないと思います。

今回は「関ヶ原」を見る前に、どうして関ヶ原が起きたのか?石田三成、徳川家康がどんな方だったのか?など基礎的なことを紹介します。

学校であらかじめ明日の授業の予習をして授業にのぞむと、先生が言ったことがすんなり頭に入った経験がある人は多いでしょう。

歴史映画も楽しく見るために、関が原の戦いをさらっと学んでいきましょう!!

 

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関が原の戦いはどのようなもの?

戦国時代の終わり頃である1600年9月15日、豊臣秀吉がなくなり、次の支配者を決めるための戦いがありました。

石田三成(西軍)VS 徳川家康(東軍)です。

そんな歴史を変える大事な戦いが、夜明けと共に始まり、わずか6時間で終わってしまうほどの短い戦いでした。

皆さんご存知のとおり、西軍が壊滅し、東軍が勝ちました。

 

 

関が原の戦いはなぜ起きたの?

戦いはたった6時間で終わってしまいましたが、そこに至るまでの過程が長く、複雑です。

そこで何項目か分けて関が原の戦いまでの過程を紹介します。

 

豊臣秀吉の死後

戦国時代の後期に豊臣秀吉が天下統一したり、朝鮮出兵したことはみなさんもご存知かと思います。
しかしそんな豊臣秀吉がお亡くなりになってしまい、さあ次は誰が支配する?

そこで、「豊臣五大老」と「豊臣五奉行」と呼ばれる人たちが日本を支配するようになりました。

  • 豊臣五奉行・・・豊臣家の上層部5人組(石田三成筆頭)
  • 豊臣五大老・・・各地の有力な大名5人組(徳川家康筆頭)

 

石田三成は、豊臣秀吉が生きてる頃からかなりの嫌われ者でした。

彼は豊臣の一番近い存在であり、豊臣の命令をみんなに知らせる役目を持っていたので、その命令によって処罰される方も大勢いました。
また、石田三成は政治家(官僚)であり、戦いで傷つくことはありませんでした。
そのため、実際戦っている武将からは特に嫌われていて、悪口を言われたりしました。

 

徳川家康豊臣五奉行に相談せず、勝手に禁止されていた行動を繰り返したため、(各地の大名や家臣に、結婚できるように間に入って取りはからったり、領地を与えたりなど)石田三成は怒っていました。

しかし、この禁止された行動は、武将にとっては嬉しいものであったため、徳川家康につく人も多かったようです。

これらの影響で、武将たちは「石田三成派」と「徳川家康派」で分かれ、のちに「関ヶ原の戦い」の主要原因となります。

 

すぐに戦いにならなかった?

そんなに仲悪いのなら、すぐに戦争になりそうですね。

しかしそうならなかったのは、豊臣家の仲裁役であった前田利家がいたからです。

前田利家は、豊臣五大老の2番目に権力があり、多くの大名や武将から好かれていました。そして徳川家康の勝手な行動を批判していたことから、豊臣五奉行寄り立場でもありました。

ところが、1599 年3月に前田利家は亡くなってしまい、仲裁役がいなくなったことで、どんどん亀裂が走ります。

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徳川家康がどんどん力を持つ

前田利家が亡くなったあとに、豊臣家の武断派7人が「石田三成 暗殺未遂事件」を起こしました。あの憎まれていた石田三成に危機が迫ります。

しかし、ライバルである徳川家康がとめたことでこの事件は解決したのですが、石田三成は被害者であるのにも関わらず、謹慎処分となってしまいました。

「石田三成 暗殺未遂事件」により、徳川家康の影響力はさらに大きくなり、石田三成の代わりとして豊臣家の中心であった「大阪城」に入ります。

豊臣五奉行としては全く面白くないでしょう。

 

関が原のきっかけになった一枚の手紙

1600年のお正月、豊臣家の中で一番力があった「徳川家康」は、大名家に年賀の挨拶を求めました。

しかし、この挨拶を「石田三成派」であった上杉家(上杉景勝)だけが断りました。

前の年から噂が流れていたので、徳川家康はこの件に関して釈明を求める手紙を出したところ、上杉家の返信は以下の文でした。

「くだらない噂を信じて謀反を疑うなど子供のようなもので、釈明の必要もない。 軍備を進めているのは東北の大名に対する備えをしているだけだ。 そちらは京都で茶器でも集めているんだろうが、こちらは田舎者ゆえ武具を整えるのが武士だと思っている。 だいたい自分が勝手に婚姻の斡旋などをしていたくせに、人に違約違反を言うのはおかしい。 前田家をお仕置きしたらしいが、大層なご威光だ。 あらぬ噂を真に受けて汚名を着せようというのなら、兵を率いて出迎えてやるから、いつでもかかってこい」

(わかりやすい)関ヶ原の戦いより引用

堂々としていてかっこいいですね♥これが有名な「直江状」です!

この手紙を読んだ徳川家康は怒り、この上杉家をうつためにたくさんの軍を率いて、大阪城を後にして出陣します。

これらが「関ヶ原の戦い」のきっかけの一部でもあります。

 

石田三成が関が原の戦いを決意

そして大阪城に徳川派が一時的にいなくなったすきに、石田三成が動き出します。

豊臣五奉行増田長盛や、石田三成の友人である小西行長などと相談し、1600年7月に石田三成は徳川を倒すことを宣言します。

準備は大忙し。

大阪城にいる徳川側の武将の家族を人質にとったり(ひどい)、西側の大名家が軍として徳川に取られないように、関所を封鎖したりしました。

さらに徳川軍の駐留部隊がいる京都の城「伏見城」を攻撃し、炎上しました。

徳川家康はそれを聞き、これからどうするかを話し合う「小山評定」と呼ばれる会議を開きました。

徳川家康は、家族が人質に取られて困っている武将たちに「大阪に帰っても構わない」と言ったのですが、「石田三成 暗殺未遂事件」の実行者の1人であった福島正則黒田長政が「残してきた妻子を犠牲にしても石田三成を討伐する!」と発言したそうです。

会議の結果、上杉家に進軍中の徳川軍は大阪方面に戻り、石田三成軍と戦うことが決定されました。

 

徳川家康、関が原の戦い準備

東軍は本隊の軍勢を半分ぐらいに分けて、2つのルートから攻めることになりました。

①徳川家康が、東海道から向かう方法。

②徳川家康の次男である「徳川秀忠」が、山を通って向かう方法。

 

しかし、②の方は、戦場へ行く途中に石田三成派である真田晶幸、幸村の「上田城」があったため、そこを倒すのに苦戦してしまいます。

結果的に②の方たちは「関ヶ原の戦い」には間に合いませんでした。

しかし、徳川派につく武将や大名が多かったこともあり、石田派である(西軍)武将の城は次々と陥落していきました。

 

関が原の戦いの前日

そして1600年、9月14日。ついに戦場に到着した東軍(徳川)は、まずは大垣城の近くに陣を構えます。

そんな増強された東軍を西軍兵たちが見るやいやな(どうしよう・・・。)と動揺を隠しきれませんでした。

しかし、三成に仕えていた百戦錬磨の猛将であった島左近が、この動揺を沈めました。

そうやったのかというと・・・挑発をして前に出てきた東軍を全員やっつけてしまったのです!フライングですね・・・。

しかしこの行いにより西軍の兵たちは(きっと東軍を倒せる!)とホッとしたでしょう。

 

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小早川秀秋が迷惑すぎる?!

関が原の戦いで戦っている間も、東軍につこうか西軍につこうか悩んでる方がいました。

小早川秀秋という方です。

豊臣秀吉の養子で、秀吉に大変可愛がられていました。
その後は西軍の総大将とされた「毛利家」の家臣「小早川隆景」という人の養子となります。

そうなると小早川秀秋は本当は西軍に属するべきなのですが、彼は石田三成が大っきらい。

その一方徳川家康には良くしてもらっていたのです。

 

彼はどっちにつくか悩みに悩み、しまいに関が原の戦いが始まってしまいました。

そして戦い中も悩んでいる間、小早川の家来たちは「徳川につきましょうよ!」と言っていたのですが、石田派の武将たちに「協力してくださいよー!」と言われたりして悩みに悩みます。

悩んだあげく決めた結果は・・・?(映画で!笑)

↑気持ち悪い絵ですみません・・・。

 

まとめ

関ヶ原の戦いの様子まで書こうと思ったのですが、過程が長すぎて疲れてしまったので、戦い場面は映画でご覧下さい・・・。ごめんなさい(._.)

いろいろな出来事があって成り立った、日本最大の合戦「関ヶ原の戦い」は、東軍、徳川家康の勝利で締めくくられるのです。
こんな長いズラズラ文章を読んでくださりありがとうございました!!
是非「関ヶ原」を見に映画館に行ってください!!

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( *´艸`)

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